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【AESAの歴史4】AESAの発足

更新日:2024年5月30日

2000年、浅草サンバカーニバル1部リーグのサンバチームをメンバーとして産声を上げた「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」。

人間の年齢にたとえればまだまだ子どもですが、浅草サンバカーニバルの誕生から続くサンビスタ(サンバ愛好家)とAESAの歴史は、日本におけるサンバ文化、カーニバル文化の歩みそのものといっても過言ではありません。

取材協力、資料提供:高橋重雄氏(G.R.E.S.仲見世バルバロス) 文:平田有紀


 

時代は'90年代に突入。日本にもサッカーリーグができ、ジョアン&アストラッド・ジルベルトやアントニオ・カルロス・ジョビンなどのボサノヴァが日本でもたびたびメディアで取り上げられるようになると、それまで一部の人にしか知られていなかったブラジル発祥のこの祭りも、徐々に全国に名が知れ渡るところとなっていきます。

メンバー達の熱心な情報収集と、円高などによって渡伯しやすくなったことも後押しして、各エスコーラ(サンバチーム)の参加人数は年を追うごとに増え、1部リーグのエスコーラからアレゴリア(山車)も出すようになります。イベントはより大規模に、華やかに、本家ブラジルのカーニバルに近づこうと盛大になっていきました。

2000年時点での浅草サンバカーニバル出場エスコーラは36チーム。約3,000人が雷門前をパレー

ドしたことになります。パレードコースや開催時期、時間帯などを少しずつマイナーチェンジしながら、イベントは創設からすでに20年が過ぎようとしていました。

そして参加者が増えれば増えるほど、注目度がアップすればするほど、参加者・観客ともに全員が楽しむための適切なルールづくりが求められるようになってきていました。それを実現させるための「機関」の設立が、急務として考えられ始めたのです。

こうした時代の要請を受け2000年、1部リーグに所属する5つの大規模エスコーラを束ねる機関として、「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」が満を持して発足しました。


10回を数える頃になると、衣装も徐々に豪華に


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