2000年、浅草サンバカーニバル1部リーグのサンバチームをメンバーとして産声を上げた「浅草エスコーラ・ヂ・サンバ協会(AESA)」。
人間の年齢にたとえればまだまだ子どもですが、浅草サンバカーニバルの誕生から続くサンビスタ(サンバ愛好家)とAESAの歴史は、日本におけるサンバ文化、カーニバル文化の歩みそのものといっても過言ではありません。
取材協力、資料提供:高橋重雄氏(G.R.E.S.仲見世バルバロス) 文:平田有紀
三社祭などで知られるように、元々お祭りが大好きな土地柄。加えてフランス座(現・浅草演芸ホール)やSKD(松竹歌劇団)など、浅草はまた、日本の新しいエンターテインメントが生まれる場所としても知られていました。新しいアイデアはこの地に受け入れられ、いよいよ1981年「第1回浅草サンバカーニバル」としてスタートを切ることになったのです。
現在はパレード形式のみですが、当時はそれに加えて雷門前に巨大なステージが組み上げられ、仮装パフォーマンスを競い合いました。第1回めから参加チームは66を数え、雷門正面の通りは30万人もの見物客で埋め尽くされました。
バンド演奏のサンバのリズムに合わせ、数分の持ち時間で出演者が登場。5人程度の小さなグループから200人を超える大集団まで、おてもやんからパイレーツ、クラブキッズまで、さまざまな仮装でめまぐるしく入れ替わります。
地球の裏側の文化「サンバ」に思いを馳せ、力一杯踊りを披露。その姿は純粋にお祭りを楽しむ精神に溢れ、現在の野外フェスやレイヴ・パーティーかと見まごうほどパワーみなぎるものでした。
ちなみにこの時の優勝は約200人のメンバーで臨んだ「M・O・Aサンバチーム」。ブラジル人のバテリア(楽器隊)を含む本格的なチームでした。
前年まで櫓の上で太鼓を叩いていた現・仲見世バルバロスのメンバーほか、現在もパレードに参加するエスコーラのメンバーの幾人かも、この時すでにイベントに参加していたそうです。リオから前年度のカーニバル優勝チーム「velha guarda da portela」(ポルテーラ)30名が来日し、圧倒的なステージで、生まれたてのサンバカーニバルに花を添えてくれました。
G.R.E.S.仲見世バルバロスが優勝した、第9回の表彰式
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